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代表者プロフィール

IMK高月株式会社 代表取締役 高月 清司(こうづき きよし)
本来の読みは「たかつき」だったが、現在は祖父の代以前に使われていた「こうづき」の読みを、仕事上も通常も使用しています。

以前、知人が Wikipedia に下記内容に近いものを掲載してくれたのですが、Wikipedia の担当者から「この内容は宣伝に近く、醜いし主旨に合わないから」というような理由であえなく「削除」されてしまったので、自分で自己紹介を書くことにしました。 そこまでいわなくてもいいのにね(笑)。

来歴

1.生い立ち
先祖は長野県穂高郡辺りから出て織田信長に仕えていたようで、本能寺の変があった時、堺にいた徳川家康が江戸に逃げ帰る途中に通った「鈴鹿越え」を助けたことで武功を上げ、そのまま伊勢、伊賀に居ついたらしい。なので、元々は忍者だったのかもしれない。運動神経は代々良い方だったようだけど、みんな目が極端に悪いから、忍者でもたいしたことはなかったんじゃないかな(笑)。

ということには全く関係なく、本人は昭和28年(1953年)11月16日東京都千代田区神田一ツ橋、地元では「さくら通り」といわれる横丁で生まれる。2-3歳の頃、三輪車で遊んでいて都電に轢かれそうになったことがきっかけで、幼稚園から小学校まで、当時まだ農村で、蛍が飛び交うような田園風景が豊かだった千葉県八千代市八千代台で過ごす。

2.学校
その後都内に戻り千代田区内の一ツ橋中学校から都立九段高校と進み、隣にあった靖国神社(大村益次郎像)を毎日見ていたせいか、防衛大学校を目指すが裸眼視力が足りずに断念。替わりに(というわけでもないけど・・)、自衛隊市ヶ谷駐屯地の横にあった予備校で理科系として一浪し、当時から数Ⅲが受験科目だった慶應義塾大学商学部に補欠入学。

慶應大学在学中は当時の日本育英会から奨学金を受けると同時に、学費を稼ぐ為自動車陸送のアルバイトで日本中を回る。一時体育会空手部に所属したことがあり、学連認定の初段を取得(優秀な幽霊部員だった・・)。
実は、慶應志木高校にも受かっていたが資金不足から都立に進み、結局1浪して慶應に入学し、最小単位(あと1単位落としたら留年)で卒業という、回り道した割には経済的な(=商売の極意!)4年間を過ごした。(卒業後も住所変更をしていなかったので「行方不明者」扱いとなり、そのお陰で慶應が得意とする数々の「寄付」からも逃れることが出来ました・・笑)

3.就職
卒業後、小野田セメント株式会社に入社し、岩手県大船渡市にある大船渡工場勤労課に勤務。工場新聞や工場文化祭などの企画・取材を担当すると同時に、労働組合の青年婦人部長を務める。(作文、演出の基礎はこの仕事で基礎を学ぶ)
また、勤務中に火災を発見し被害を未然に防いだことが評価され、工場長表彰を受賞(ひと晩で消える・・)。
独身寮の寮長時代には食事内容の改善を図り、麦飯を主食とした献立にして予算削減と健康増進を図るが、地元出身の同僚から「社会人になったら麦飯の生活から縁が切れると思っていた・・」といわれ、人の為に為すことの難しさを痛感・・。

大船渡市と言えば、H23年に起きた東日本大震災による大津波で被災したことで有名になったが、当時も宮城沖地震で震度5強の地震と1m程度の津波を経験した。1m程度でも波が打ち寄せる音はものすごく、いつ防潮堤が崩れるかひやひやしたのを覚えています。その防潮堤も今は無く、あれが壊れたと思うだけで、大津波に限らず自然の威力は人知の及ぶところではないと思う。自然の力を「想定」なんてしてはいけないのですよ。

その後、同社の大阪支店に転勤し、大阪市さらに神戸市に住んで阪神電車を利用してから、専ら阪神ファン(+アンチ巨人)となる。大船渡で東北弁、大阪で関西弁に通じたことで、日本には2人種いるなあとつくづく思っていたら、今度は数年後にジャマイカのCaribbean Cement Co., Ltdへ出向を命じられる(内心、やったあ~!と本当にうれしかった)。
現地ではセメント工場建設の国際プロジェクトの総務部長(Chief Administoration)として、銀行資金決裁から外国人社員の採用や給与支払い、日本人社員の為の住居や食事手配など、さながら運動部のマネージャーのような仕事をこなし、この頃から人生観、仕事観に国際感覚が芽生え始める。
約3年間の赴任中に休暇を活かして日本人では当時まだ珍しかったバックパッカーのように世界40カ国以上を回った経験を持つ。

この頃、外国人の友人に「ケイ(私のニックネーム)は鳥に似てるね」といわれたんだけど、そういえば飛行機に乗るのも、あっちこっちと旅して歩くのも大好きで、確かにフーテンの寅さんも好きだから、前世は渡り鳥だったかも。目は悪いけど、花?は好きだしね・・笑。

4.職歴
帰国後は製品・原燃料の輸出入部門を担当(燃料トレーダー)し、取引先の大手商社にいた日本人女性と結婚し男児を授かるが、1997年に会社から中国への単身赴任を命じられた為、家族との生活を優先し早期円満退社。2か月の失業中に取引先だった住友石炭鉱業株式会社に拾われ、海外営業専任課長として転職。
さらに、東京海上火災保険株式会社のインシュアランスプランナー(営業専門職)として転職。約3年間の在籍中に全国トップの成績を残すと同時に、その頃から社会問題化しつつあった医療訴訟の解決こそ重要と認識し、医療安全を専門とした代理店「渓高月事務所」を設立して独立。
その後、母親が経営していた代理店IMK高月と合併して2006年株式会社化し、同時に代表取締役社長に就任。
以後、医療過誤対策の保険である医師賠償責任保険を専門的に扱うと共に、公認の医業経営コンサルタントとして医療安全を専門とした研修会の企画・提案・講演などを全国的に行っている。

結果として、会社歴では三井系2次産業(小野田セメント)、住友系1次産業(住友石炭)、三菱系3次産業(東京海上)の三大財閥と産業の3分類全てを回り、職歴も工場労務(夜勤も経験)、支店営業、本社営業、労働組合、出向、海外駐在(総務経理)、購買、輸出入、3国間貿易からルート販売と、サラリーマンが経験する職種の殆どを(ついでに、失業まで)経験。さらに、大企業の社員から始まり個人事業主を経て、現在中小企業の経営者をしているという極めて稀な経歴を有する。

現在は、勤務医を中心としたMRM(メディカルリスクマネジメント)研究会の運営も行いながら、和田仁孝早稲田大学法科大学院教授に私淑し、医療メディエーションの普及に取組んでいる。その他、がん研究会の土屋了介医師、東大医科研の上昌広特任教授からも指導を頂きながら、MRICメルマガへの寄稿を通じて勤務医師の労働環境整備についての提言なども行っている。

サイトのTOP画像にある、会社の社是でもある三方一両"得"は造語。江戸小噺にある三方一両損をもじったもので、医療事故をめぐってお互いに疲弊し距離が遠くなっている医療側と患者側との関係を、医療安全を徹底することで本来の信頼関係を取り戻すことができれば、社会全体が幸せになって保険側もビジネスとして成り立つようになるという考え方で、新潟県や静岡県など全国各地の公立病院で広く採用されています。

5.運命的な「因縁」
まず、陸軍の因縁。高校の九段高校は靖国神社の真隣りにあり、毎朝神社の正面にある大村益次郎(陸軍の祖といわれる)の銅像を見て通学。そのお陰ってこともないけど、防衛大学を志望することになったのかもしれない(それにしても、大村益次郎の生涯を描いた「花神」は面白かったなあ)。で、結局浪人して通った予備校は自衛隊市ヶ谷駐屯地の真隣り。さらに、今のマンションは日本の一番長い日で割腹自殺をする阿南陸相の私邸跡だし、今所属している小石川ロータリークラブの例会は椿山荘なんだけど、ここは元々陸軍を作ったとされる山縣有朋の別邸のあった所。まあ、陸軍だらけってわけですね。

次は、三井物産。これは因縁ではなく、血縁かな。実は、私の血の3/4(英語でかっこよく、スリークワオーター)は、三井物産で出来ているんです。まず、父方の祖父(役員まで務めた人)、その祖父が息子(父=三井系保険会社勤務だった)に部下の女性(母)を紹介してできたのが僕なので、3/4という計算ですね。

で、私も当然三井物産を目指したんだけど、当時S51-52年頃は今のような就職氷河期と言われた時代、とにかく早く内定をくれた小野田セメント(=母が物産時代に担当していて、高校の先輩が人事の採用担当という運命的な繋がりを感じて)に入社。そして、1回の結婚と2回の結納を経験して36歳の時に今の女房と結婚するのですが、その恋女房がやはり物産。しかも祖父、母、家内とみんなセメント物資部、ついでに義父も物産(総務部長で定年退職)という、やはり何かの因縁かな。

6.3回の奇跡(死にそこないを3回も・・)
最後は、奇跡というか3回死にそこなっているというお話。
最初は0歳の頃、42度前後の高熱を発したものの、赤ちゃんの頃はみな知恵熱とか言われて放っておかれていたが、僕の場合何日も熱が引かないので近所の診療所の医師に診てもらったところ、「これはあぶない。運よく助かっても脳に障害が出るかもしれない」といわれたそうだ。脳に障害・・、その通りだったかも。

2番目は、小学校の低学年だった頃。放課後の校庭で野球をやっていて、隅まで転がっていったボールを拾おうとしたところ、「あぶない!」の声。その声の方角に振りむこうとした瞬間、目の前でピカッーと銀色の何かが光り、次の瞬間目の前は全く見えなくなってしまったのです。何が起こったのか、僕は数時間後、近所の診療所で知ることになるんだけど、お医者さん曰く、ボールを拾おうとした場所で上級生がナイフを木に投げて遊んでいたそうで、僕が見た「銀色に光る何か」とは投げられたナイフだったんだそうだ。

そのナイフは振り向く僕の右目をかすり、左目との間の眉間に「カーン」と音を立てて当たったわけで、噴出した血が両目に流れて瞬間的に意識を失ったみたい。もし0.0何秒、振り向くタイミングがズレれば、僕は左右どちらかの目を失うか、目に刺されば脳挫傷で即死だったかもしれない。結局、元々近視だったのが弱視まで進んだ程度で助かったのでした。頭に続き、目にも障害を負ったわけ・・。

さあ~て、最後の奇跡です。31歳の時、ジャマイカへの赴任が決まって意気揚々としていた頃(離婚直後だったので、仲間から島流しと冷やかされたけど、本人は有頂天)、今住むマンションの自宅(1F)の柵の前の1m幅の空き地の草取りをしていた時のこと。その空き地は高さ 5-6m の崖の上にあったのだけど、何の拍子か僕はバランスを崩してその崖から真っ逆さまに転落してしまったのです。

5-6m の高さでも人間は防衛本能から気を失ってしまうようで、頭から落ちたにもかかわらず痛みは全く感じなかった。落ちた場所は工事現場の足場が組まれ始めたところで、あと数10cm 左右どちらかにズレれば鉄パイプの端っこ(輪になっている方が上を向いていた))に当たって、顔面は砕けていたらしいが、なんとか平たんな場所に当たって額を割った程度で済んだんだそうだ。結局、50針くらい縫って3泊入院したけど、治してくれた医師(偶然、高校の先輩だった)から「普通この高さを頭から落ちれば、10人のうち7-8人は助からない。助かっても後遺症に苦しむだろうが、君の場合は首と背中の椎間板が少しズレた程度で神経には問題ないから、後遺症もつらいほどではないだろう。助かった命、大切にしなさい。」と諭されました。

この1件で、不思議なことが3つあった。
1つは、翌日の新聞に「転落事故相次ぐ」とあったこと。僕のケースは載っていなかったけど、全国あちこちで僕のように訳も分からずバランスを崩した人が大勢いたってことは、地球の磁場に異常でもあったのかもしれないと思うのですよ。

2つ目の不思議は、霊体分離(っていうのかな?)らしいことを経験しているんです。落下した瞬間に気を失っているんだけど、倒れている自分を見た記憶がハッキリとあるんですよ。霊体分離という言葉をその時は知らなかったので夢かと思っていたんだけど、「あれまあ、血だらけジャン」と思った瞬間、エアポケットにでも入ったようなものすごい力で倒れている体の方角に吸い込まれていく感覚があって、次の瞬間気が付いたってわけ。おおコワッ・・。

最後の不思議は、それまで高い所から落ちる、という夢をよく見ていたんだけど、その日以降まったく見なくなった。それまで余程、背伸びして自分をよく見せようと無理していたんだろうね。離婚した直後だったから、「まだ自分が自分で分からんのか!」と、神様が鉄槌をくわえてくれたのかもしれないと、今では感謝しております。

というわけで、7転8倒、9死に1生(実際は3生か・・)の波乱万丈、ハチャメチャ人生を送って来たわけですが、来年(H25年)にはめでたく還暦を迎えるわけで、これを機に今度は御恩返しの意味を込めて、何か社会や人様のお役に立つような仕事をボランティアでしたいなあ(これをロータリーでは「奉仕」というんです)、と思っております。

人生、60歳からの夢が本当の夢だ、とも言われますから、どこかでお目にかかったら、ぜひ気楽にお声掛けくださいな。
ではでは、人生後半のお話は、また別の機会にお送りしましょう。(H24年4月記)


著書など
  • 医療事故 損害賠償の実務(三協法規出版、編著)
  • MRMハンドブック(MRM研究会 和田仁孝共著)
  • 日経メディカルオンライン誌に寄稿した「背筋が凍った東大医学生のいい医師とはのキーワード」が、09年アクセスランキング第1位に選ばれている。
交友関係
メディカルリスクマネジメントの研究会であるMRM研究会会長の鈴木博之医師とは、同い年で友人。
筑波大学医学同窓会である桐医会会長の山口高史医師(水戸医療センター統括診療部長)とも同い年で懇意。

MRM研究会理事の土屋了介医師(元がんセンター中央病院長)、同・和田仁孝早稲田大学法科大学院教授、同・上昌広東大医科研特任教授、また山形大学副学長の嘉山孝正医師などから医療メディエーションや医療政策などの分野で指導を仰ぐ一方、東京大学エグゼクティブマネジメントプログラム(東大EMP)の横山禎徳企画推進責任者の勉強会にて、総合的な社会システムデザインについて定期的に(たま~に)学んでいる。

また主治医的な立場から、慶應義塾大学病院一般消化器外科の北川雄光教授、神経内科の鈴木則宏教授、整形外科の松本守雄医師、循環器内科の河村朗夫医師、工藤樹彦医師、きたみ胃・大腸クリニックの西堀英樹医師などから本人・家族が診察を受けている。歯科医では、西原英志医師(西原デンタルオフィス)、志賀泰昭医師(志賀歯科医院)など。

法曹関係では、瀧澤秀俊弁護士(あたご総合法律事務所)、棚瀬慎治弁護士(棚瀬法律事務所)、加藤慎弁護士(虎ノ門法律事務所)、水澤亜紀子弁護士兼医師(皆川・水澤法律事務所)、鵜飼一賴弁護士(大原法律事務所)などと親しく、井上清成弁護士(井上法律事務所)とは編著で出版も共にしている。

有名人では寺島実郎(日本総研理事長他)、櫻井よしこ(ジャーナリスト)、元谷外志雄(アパホテル代表)、政治家では細江茂光(岐阜市長)、松田学(たちあがれ日本)、國枝正人(みんなの党)と親交がある。
同じく、長島昭久(民主党衆議院議員)、足立信也(民主党参議院議員、医師)、鈴木寛(民主党衆議院議員)などとも面識がある。

個人的な関係では、猪俣弘司(サンフランシスコ総領事)とは九段高校で3年間同組。山本武男(リテイルマネジメント(株)社長)とは慶應時代からの遊び仲間。
東京小石川ロータリークラブに所属し、2011-12年度副会長を務める。

思想・信条など
思想的には保守系であり、つるむことを嫌い一匹狼的な行動を好む性格。
好きな言葉は生活信条として「愛と勇気」。迷った時には「思い立ったが吉日」、「歩きながら考える」、「敵千人味方千人(周りが全て敵だと思う時でも、同じ数だけ必ずサイレントな味方はいるものだ)」など。
その他エピソード
  • 三井物産家系で、祖父(高月喜右衛門)、伯父(多喜男)、実母(也恵)、義父(豊田吉郎)、妻(早苗)がいずれも三井物産出身者。
  • 海外勤務時代に習得した語学を趣味の一つとし、瞬間風速ながらTOEICでは860点、TOEFL 620点をマークしている。その他、赴任地でマスターした東北弁や関西弁でも会話が可能。
  • ジャマイカ時代から人種に興味を持ち始め、人種には白・黒・黄色の他に「茶」系があるのではないかと考えている。
  • 30歳の時に見合いで最初の結婚をしたが、約1年で離婚。26歳の時のドタキャンと併せて、結納を3回経験している。
  • サッカーはひとり息子(謙介)が始めた95年頃からのファン。その為、自社のロゴマークがサッカーチームのエンブレムになぞらえたデザインなのはそのため。